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フランスの夏・猛暑・2003

 
7月20日
ANA'NH205'成田発11時25分パリ行きの座席は、離陸して数時間たったころとても座り心地がいいことに気がついた。
その上、かく座席の前には 小さいテレビがついていて、映画はもちろん、マージャンや将棋まで楽しめるように なっている。
座席も心なしか広くなっているようで、いつもより快適な空の旅を楽しんでいることに気がついた。
東京-パリの所要時間は12時間なので、サービスの善し悪しは旅の印象の決定的な要素になる。
何年前だったか、機内が余りにも寒いのでステュワーデスに、「少し寒いのですが」というと、「日本のお客、とくに老人たちは低い温度を好むので...」とわけの分からない理屈をこねた奴がいる。
その上、「あなたが座っている場所は、機内でも最も冷えるところだ」とぬかすのだ。
「ジャー何とかしろよ!!ドアホー!!」と、心の中で叫んだ。
自分たちはお仕着せのブレザーを着ているので、温度を都合のいいように合わせているのだろうと勘ぐった。
乗客の多くが胸のあたりまで上掛けをかけていたので、「あの人たちを観察していないのですか」と詰問した。
廻りの乗客は誰も文句をいわないのだ。
日本人はしばしば従順すぎる。
買ったばかりのマッキントッシュ、アイ・ブック14型を開いて見ていると、スチュワーデスが寄ってきて、「随分キレイですね」、とお愛想をいってくれる。
別に手を握ったり、抱っこチャンをしてくれるわけではないが、こんな小さなサービスが旅に彩りを与えてくれる。
アイ・ブックは、フランス滞在中もインターネットをしようと、出発前の慌ただしい時間をさいて買ってきた。
今まで使っていたノート型マッキントッシュは、今から 6、7年前のモノで、当時は時代の最先端でかなりの高額だったが、友人から中古で買ってきた。
今ではワープロぐらいの役にしかたっていない。
日本で使っている・ヤフー・がフランスにはないので、数日前にAOLに電話して、フランスではどのように接続するのかも確認しセッティングしてある。
電話での応対で適格に教えてくれ、入会費無料で、最初の一ヶ月も無料だという。
世の中はサービス合戦の様相をしめしてきた。
自分のシャンソン・コンサートも、廻りに北朝鮮の美女軍団を並べるとか、サービスの内容を考えなくてはいけない。
機内放送で、パリの温度は28度、快晴と案内があった。
日本では長梅雨で洗濯さえ思うようにできなかったら、旅の前日にはコインランドリーで洗濯物を乾かしてきた。
シャルル・ド・ゴール空港にはレイモン・ルフェーブルが迎えにきてくれていた。
ボクのバカンスである夏のフランス旅行は、もう10年以上続いている。
フランス迄の航空運賃は、ポール・モーリアとレイモン・ルフェーブルが一年ごとに交互に払ってくれている。
その上、フランスでの国内旅行の運賃、パリに泊まったりするとそのホテル代など、すべて面倒をみてくれる。
この親切がミュージシャンたちにも飛び火して、オペラ座を引退したバイオリンのバルボン夫妻が、最近では時代の先端をいく観光地「イル・ド・レ」に招待してくれたり、モーリアの親友、ピアニストのジャン・ベルナールがマルセイユに呼んでくれたりするが、これも何かの縁と甘んじて受けている。
ところでレイモン・ルフェーブルは、夏の間、リュベロン山のふもとカブリエール・デーグにある別荘に住んでいるが、ここはアビニオンの南75キロで、パリから約650キロの場所にある。
日本からシャルル・ド・ゴール空港に着くボクは、本来そこからタクシーでリオン駅に行き、TGV(フランスの新幹線)に乗ってアビニオンに行かなければいけない。
そこにレイモンが待っていて、車で別荘に連れていってくれる。これが本筋なのだが。
問題はボクが持っている重さ25キロぐらいの旅行鞄と、同じぐらいに思い手荷物、それにノートパソコンなのだ。
一ヶ月以上フランスにいるため、読書好きのボクは10冊ぐらいは本を持っていく。
他に辞書が1冊。プラス2冊のフランス語を覚える本。(こんなモノ、結局は読みはしないのに)
自分の歌のミュージックノート2册に、自分が唄っているシャンソンの詩をまとめてあるノートが1冊。この3冊が凄く重い。
M.Dウオークマンに変圧器。 デジタルカメラ1台と、それに使うバッテリーの充電器。
そんなわけで、電気ヒゲそりを持っていかず、使い捨てを買っていく。
少しでも重量を減らそうと努力している が、最後には富士山に登る強力のような感じになってしまう
1ヶ月で本10冊は多いと思われるだろうが、あちらにいると読書がはかどる。
テレビとかマージャンとか、電話でのたわいのない長話など、毎日の生活には必要不可欠な無駄から解放され、集中力が高まる。
それに、普段たいしたことをしていない人間に限って、フランス旅行中に総てを取り戻せと、潜在意識に脅迫されているのだろう。
ボクが重い荷物を引きずって、ドゴール空港からリオン駅へ、そこからアビニオンまでTGVで移動するのを心配するレイモンは、田舎から車で出発し、途中ブルゴーニュのマコンで1泊し、パリに出て空港に迎えにきてくれる。
その距離650キロ。
その上、エッフェル塔のそばにある、自分のアパートに数日泊めてくれ、「ハジメ、パリでは買い物があるんだろう」と、C.Dや譜面を手にいれる便宜をはかってくれる。
レイモンの家で一泊したあくる日、ボクたちはパリ16区、パシー駅の近所にある 中華料理店に行った。
歩道にもはみだしたテーブルや椅子を、今日もたくさんの客が埋めていた。
ここには昔から何回も来ていて、店主の中国人とも顔なじみだ。レイモンは好物の酢豚と海老のチリソース。
ボクは珍しくマーボ豆腐を注文してみたが、その塩辛くて不味いのには閉口した。
豆腐が日本の・こうや豆腐・みたいだし、盛り付けとか色合いもぞんざいで、料理自身のバランスが醜い。
とてもプロの料理とはいえなかった。 もちろんプロでなければこれほどの不味い料理は作れないだろう。
味わってないのだ。
レイモンに、「どうだね味は?」ときかれたが、ごちそうになっているてまえ、「セ・ボン」と小さな声で答え、残すわけにもいかず、無理して全部食べてしまった。
これが大失敗だった。あくる日から喉がひりひりと痛みだし、3日たっても治らなかった。
のどの痛みは鼻に繋がり、声が風邪引きのようになり、鼻水が止まらなくなった。
喉の痛みは変化してガラガラ感として残り、1週間たっても直らず、とうとう薬局に薬を買いに行った。
「うがい薬を下さい」と注文すると、「どんな症状なんですか」と丁寧に応対してくれる。
説明すると、「うがい薬は治療の役に立たないんですよ」と、シロップ状の薬を勧めてくれた。
ご馳走になって食事が不味い場合、なんと答えたらいいのだろう。
正直に「セ・パ・ボン」(不味い)と答えた方がいいのか、それとも「セ・パ・マル」(悪くないネ)などと曖昧に答えた方がいいのか、判断が難しい。
東京人のボクには不味いとはいえないが、フランスに持っていった司馬遼太郎の本、「16の話」によると、大阪人はご馳走になっていても不味いといえるらしい。
それから数日たって、南の別荘で食事の話題になったとき、「ところで、パッシーの中華料理は不味くなったという噂だけれど、味はどうだったの?」とレイモンの奥 さんにきかれたが、ボクのマーボ豆腐が極端に不味かったのは偶然ではないことを知った。
「不味い」というレストランの評判は一瀉千里を走る。
噂になるほどだと、このレストランの運命も長くはないと、働き者の主人の顔が目に浮かんだ。
3日目はシャンエリゼの裏にある焼肉屋に行った。
行ったといっても、レイモンが 車で連れていってくれるのだ。
シャンゼリゼ大通りの下には巨大な駐車場が長くのび ているのを知った。
フランスにある焼肉屋は、だいたい刺身も寿司も出すところが多い。
いつものよう にレイモンは、ビールと酒の熱燗を注文し、アントレは刺身の盛り合わせで、メイン ディッシュが焼肉。
はじめて見る日本人の若いウエイトレスは元気がなかった。
フランスに来て間もな いのかなとも思ったが、刺身にたとえると生きが悪い。
反対に30才ぐらいの、小柄で小太りのフランス人ウエイトレスは、テキパキしていてユーモアもあった。
ポンと 話しかけるとパンと答えが帰ってくる。
日本人ウエイトレスには「ニッポン頑張れ!」 と、眼でエールを送った。
焼肉は日本と違ってお椀を伏せたような鉄板で焼くが、肉はハムのように薄めに切ってある。
刺身も肉も合格だった。
隣でフランス人が寿司を食っているのを見たが、食べ方が堂に入っているのでとてもユーモラスだった。
店は繁昌していた。
いつもレイモンにへばりついていては相手もくたびれる。
パリにもだいぶ慣れてき たボクは、単独行動も苦にならなくなってきた。
オルセー美術館や、ルーブル美術館に行く。
入場料は安いし、多少は教養の足しになる。
最近長い距離を歩くようになったボクは、オルセー美術館からルーブル美術館まですたすたと歩いて行く。
凱旋門から歩いて数分の、カメラからCD、MD、譜面まで売っている大型店「フナック」にも行き、レパートリーに加えようと、フランス子守唄のCDをさがしたが、CDも譜面も探せなかった。
今年の秋も深まったころボクは、子守唄、わらべ歌、及び日本の佳い歌をテーマにしたコンサートの司会をする。
コンサートは、「翔歌と題して、第一回は『時代(と きと読む)を翔ける歌』。プロデューサー 阿久悠、、内野二朗。パルコ劇場」。
反対に考えてもいなかった、「イブ・モンタン」、「セルジュ・ゲンズブール」、「ジルベール・ベコー」のDVDを買った。
画面を見て、改めてスターの凄さを認識し た。
モンタンは推定70才近くの年齢で、ジョギングをしジムで身体を鍛えていた。
他にも「バルバラ」や「レオ・フェレ」「アズナブール」など欲しいモノがたくさん あったが、旅の最初で羽目をはずしているとあとで後悔する。
レイモン・ルフェーブルの家には、ポルトガル系の若いお手伝いが朝9時にはくるが、掃除だけで料理の面倒はみてくれない。
朝のコーヒー、ジュースやクロアッサン は、レイモンが用意してくれる。
こんな様子を、熱狂的なレイモン・ルフェーブルグランド・オーケストラのファンが見たら、「愚か者め!頭が高い!」とどやしつけら れそうだ。
昼には何を食べようかという話になり、近所のテイクアウト屋、「フロー」で買うことにきめた。テイクアウトといっても「フロー」はかなり高級で、よだれの出そうな食べ物がたくさんおいてある。
もちろん「握り寿司」もあったが、廻りのフランス食品の中で肩身が狭そうだった。
ボクの意見で「パエリア」と、「ムロン・オー・ジャンボン」を買った。
「握り寿司」はいまいち信頼感に欠ける。
食べながらたくさんの話をする。ボクのフランス語の実力だが、時には我ながら感心し、我ながら情けなくなる。
女性名詞と男性名詞の冠詞、RとLの撥音の違い、単数 複数による形容詞の変化などは、長年間違い続けると混乱してくるのだ。
また文法面で、相手の推理力が必要になる場合が少なくはないが、政治、経済、社会、文学や音楽、ジョークなどすべての領域をカバーする。
レイモン・ルフェーブルは、自分がオーケストラを率いて活躍していたフランスのテレビ番組で、イブ・モンタン意外のすべての歌手の伴奏をしていた。
テレビ出演していた17年間は超有名人だったし、10年ぐらい前迄は、よくサインを頼まれていた。
思い出話しを一つしてくれた。
「パリの空の下」の作曲家ユベール・ジローはかなり上手な歌手で、若いころは「ド・レ・ミ」というコーラスグループを作って活躍していた。
自身ギターの名手だったが、もう一人のギター奏者と、その妻が看板歌手のトリオだった。
ところがその女性がユベール・ジローに恋をしてしまい、トリオは残念ながら解散の憂き目にあったそうだ。
この話には、なんだか人生のエスプリがたっぷりて含まれているようで、とても気に入った。
フランク・プールセルは、フランス音楽界の大物だった。
数回の来日ツアーもおこなった。
人格的にも音楽的にも、誰からも尊敬された人柄で、指揮ぶりは後輩の指揮 者に大きな影響を与えた。
彼の奥さんの美しさや優雅な身のこなしからも、フランクは生まれながらのエリート音楽家の家系か、もしくは奥さんが資産家の出なのかと思っていた。
レイモンの二人の息子の名付け親で、ポール・モーリアもこの楽壇でピアニ ストをしていた。
ミッシェル・ル・グランと仕事をしたとき、「君はどんな人の司会をしたのだね」と聞かれ、最初にいう名前を十分吟味してから、「まずフランク・プールセル......」 と言い終わらないうちに、「ボクが最初に仕事をした場所がプールセルのオーケストラだった.........」と、しばし感慨に浸っていた。
ところが若いころのフランクは、・ルシエンヌ・ボアイエ・の伴奏などをしていたが、金持ちなどではなかった。
どうしてもアメリカで仕事をしたくて無鉄砲に国を飛び出し、お金に困ってサンドイッチマンをしたこともあったそうだ。
レイモンは今年、田舎で使っていた古いベンツに変えて、同じベンツの最新型CLK320を買った。
距離メーターはまだ1000キロそこそこだった。
別荘があるリュベロンから、アビニオンを経てブルゴーニュのマコン、リオンを通過しパリまで約650キロだから、買ったばかりに違いない。
その昔はマセラッティー・シトロエンという、えらくぶっ飛ぶ車を持っていたが、 最近はおとなしくなって、パリではジャガーのベルリンという車に乗っている。
かな りのカーマニアなのだ。マニアという点ではボクも負けてはいない。
名前も忘れてしまったホンダ250CC、 同じホンダのフュージョン、続いてヤマハのマジェスティー。
全部250CCのスクーターを15年ぐらい乗り継いでいるが、最近は茶パツのお兄ちゃんたちも、スクーターに乗っている。
ホンダやヤマハは、ベンツやジャガーと比べてもネーミングでは負けない?
そのベンツで南に向け出発した。
アクセルを踏み込むとまるでバイクみたいに加速 していく。車の中でレイモンは、「パリに出て来るとき、マコンのホテルに泊まった。暑かったから、ガスパッチョという冷たいスープを頼んだがこれがウマかった。それに蛙を メインディッシュでとって、デザートにタルト・オー・ポンム(アップル・パイ)を 食べたのだが、それが薄くできていてとても繊細な味だった。今晩も同じモノを頼むよ」と、もう食事の話をしだした。
それでボクも「同じモノを食べます」と答えた。
蛙は十年程前にも食べたが、これは凄くウマいという料理ではない。
ただ、ステーキを食べても話の種にはならないの で、蛙を食うのも経験だと思った。
ガスパッチョはウマかった。冷えたコンソメ風スープで、トッピングとして、細かく刻んだキュウリや、タマネギ、セロリ、ニンジンを入れる。
涼しい風を運んできてくれるような、のど越しが爽やかなスープだった。が、カエルはやはり失敗だった。
不味いわけではないが、小骨というか脚と体の骨を口から吐き出すのに一苦労するのだ。
それに本来は、エスカルゴに付いているような、バターとニンニクと塩味のバランスが決め手なのに、何かが少したりない。
何かが少し足りないなどと偉そうだが、 足りないのは自分の味覚のセンスかも知れない。
「ラテ!」(失敗作だ)、レイモンはデザートを食べながら呟いた。柔らかなはずだった衣は焦げ目さえついていて、繊細という味にはほど遠かった。
「SAONE」ソーヌ河にそった・古い農場・という名前の、部屋が一列に並んだモーテル風ホテルは、満員らしく、5、60人の客がレストランで食事をした。
女主人と、二人のウエイトレスが注文を捌き、料理をだし、後かたずけをしている。
しかしどういうわけか、女主人が出てこなくなり、もう一人のウエイトレスがいなくなった。レイモンが「たった一人になって、てんてこ舞いしてるぜ」といった。
ウエイトレスは、デザートの時間になると笑顔が消えていた。疲労を隠しながらも チーズをテーブルに運び、そのテーブルの皿を下げ、次のテーブルにチーズを運び、 同じ動作ををくり返している。
レイモンが、「彼女がスリムなわけが分かったよ」といった。
彼女の仕事は楽しそうではない。お客との会話でもあれば気晴らしになるのだろうが、満員で手が少なければ、そんな余裕はみじんもない。
単調な作業だけに辛いと思っ た。
単調な作業をくり返している、その上けっこう威張っている公務員の悪口を一つ。
レイモンの話だからフランスの公務員。日本のではないよ!
《問》「公務員と失業者とはどこが違うかね」。  
《答》「失業者は一度は仕事を経験したことがある」。
ワインの瓶の残りがだいぶ少なくなったころ、女主人が「いかがでしたか?」とお愛想をいいにきたが、レイモンはにっこり笑って、「いつものように美味しかったよ」と答えた。
疲れたウエイトレスは仕事を終わって何を考えているのだろう。
うわべが辛そうだった彼女が不幸せとは限らない。世の中の面白いところだ。 家に帰ると、司法試験に合格したばかりの、近所でも評判の孝行息子がいたりして、「母さんお帰り。今日、店はどうだった?」などと声をかけてくれれば、その瞬間彼女は世界一の幸せものになる。
そんなことを考えていると、《Tu est dans la lune?》「月に行っているのかい」とからかわれるが、目つきで分かるのだろう。
多少の妄想癖があるのだ。
10時近くになって、日が名残りを惜しむ間もなく急速に落ち、「ボンヌ・ニュイ」の声がこだまして、暑かった一日の終わりを告げた。夏のフランスで戸惑うのは夕方で、まだ日射が強いのに「ボン・ソアール」と挨拶 される。夏時間は日本より一時間進んでいるから、実際の7時は6時にすぎないし、 緯度の関係で9時過ぎ迄はどこも明るい。
それでボクはいつも「ボンジュール」といってしまう。
あくる日、強いコーヒーで身支度を整えたボクらは、叩き付けてくる太陽の熱射を引き裂くように、ベンツCLK320で快調に高速道路を飛ばしていた。運良く、捕まってしまうとひどい眼にあう渋滞にもあわなかった。
74才のレイモンは「この車は240キロ出るんだぜ」と自慢していた。
途中のガソリンスタンドでセルフサービスの給油をしているとき、ボクは雑巾でフロントガラスの汚れを取ってあげた。
パリ市内の交差点で信号待ちしていたとき、中年の男が素早くよってきて、フロント硝子に洗剤を吹き付け、大雑把に掃除をし金を無心した名残りだった。
もちろん一銭もあげなかった。
昼食は「クルト・パイユ」で食べることにきめた。
このレストランはフランス国内に150店鋪はあるというチェーン店で、日本でいうファミリーレストランだがステーキを売りにしている。
広いテラスに囲まれているが、店内には大きな炉が作ってあり、 いつでもステーキが焼けるようになっている。
150グラムのヒレステーキに、フレ ンチポテトとインゲンがつき、味はまあまあで値段は1500円程。
すべてが中くらいの店だ。
しかしサービスは早く、もし焼き加減がお好みでなかったら、すぐに新しい肉に交換しますと、メニューに書いてあった。
高速道路の右側に、蒸気を吐き出している数本の大きな煙突を見ながら、アビニオンに近付いていく。
大きな煙突は原子力発電所の冷却装置で、今年の異常気象で外気 が上がり過ぎ、必然的に冷却装置から吐き出される水温も上がる。
河に入る水温は36度にもなっていて、環境に悪い影響を与えているとテレビで報じていた。
高速道路を抜け、道がどんどん細くなり、緑がフロントガラスをおおいはじめた。
遠くにリュベロン山の山並みが見え、僕を迎えてくれる人々の笑顔が、一人ひとり脳膜に描き出されてきた。
80才をこえたスパルタカスは、身長が180センチはある。
若い頃にくらべると、 少なくとも5センチは身長がちじんだそうだが、知識が豊富で、趣味はギリシャ語と グライダーを操縦すること。
自分の得意な分野に会話が入ると、話しがややこしくなるきらいがあるが、学生時代から相思相愛の妻と、いつも行動が一緒で微笑ましい。
そのスパルタカスが、今年のはじめに大腸癌で入院した。
レイモンが「退院しても う1ヶ月以上になるんだが、昔のようではないんだ」と心配していたが、会ってみると目に生気があり安心した。
レイモンの奥さんも元気だった。彼女が若いころは、パリでショー・ダンサーとし て活躍していた。のちに有名になる、コーラスをしていたバルバラとは楽屋がいつも同じで、アンリ・サルバドールとも仲良しだった。
サルバドールはいつ会っても、 「オ!マ・プランセス」と呼んでくれる、と話してくれた。
バルバラは若い頃とても太っていたが、その後どうして痩せたのか見当がつかなかったそうだ。
結局彼女は血液の病気で、その才能のすべてを見せてくれずに若死するのだが、過度なダイエットが体調を破壊してしまった可能性もある。
マリア・カラスだっ て、太ったままだったら楽しい人生を全うしていたかもしれない。
しかしながら他人の幸せ度などは、余人の知るべき範疇にない。
レイモンの奥さんニコールは、エジプトのアレキサンドリアで博物館の館長をしていたフランス人の娘で、6才までエジプトで過した。
そんな影響はないに違いないが、 フランス人として見てもエキゾチックな顔だちをした美人で魅力がある。
スタイルも よく、何にもまして、スラングを交えたパリジエンヌ風な話し方、ときには、「ヌ・ ム・フェ・パ・シエ」(わたしにウンコを漏らさせないでよ)などといい、とても年を感じさせない。
食事は、レイモンと息子のジャン・ミッシェルが買い物をして、奥さんが作り、料理によってはレイモンや、ジャン・ミッシェルも活躍する。
レイモンは料理が好きで、ウサギ鍋を作ってくれたこともあるし、南仏名物の「アイオリ」などは自分でソースを作る。ソースなどと表現すると怒られそうだが......
ニンニクをすり鉢に入れ、オリーブオイルを交ぜながらすり潰していく。
卵の黄身 を入れ、落花生のオイルを交えながらなおすり潰す。
最後は黄ばんだ粘り気のあるマ ヨネーズ状態になる。
オリーブオイル、落花生のオイル、卵の黄身などすべてが同じ温度でなければならない。
市販のものもあるが、粘り気にかけ味も落ちる。
前の晩から塩抜きをしておいたタラ、茹で卵、蒸かしたじゃがいも、いんげん、にんじんなどに付けて食べるが、凄くうまい。
その変わりに、1キロ以上にわたって匂 いを発散するから、会社に行く前とか、恋人と会う前は食べない方がいい。
人格を疑 われるぐらい臭い息になる。息子のジャン・ミッシェルは焼き物担当で、岩魚の高級魚で15センチぐらいのロジェ、鯛に似たドラド、鰯や、もちろん肉など、すべてカマドで焼いてくれる。
もちろん誰が料理しても、一口食べた瞬間に、「セ・トレ・ボン!」とか「デリシユー!」とか「パルフェ!」とか誉めなければいけない。
あるときはさり気なく、あるときは大袈裟に、そのタイミングは博士号を取るぐらいに難しい。
会話術の最たるものだ。夏のワインはロゼが多いが、スーパーで売っている、バーゲンの安物だけは絶対に 飲んではいけない。
冷やして飲むからのど越しが爽やかだが、あとで七転八倒の苦しみを味わうそうだ。
最終的にはこの別荘に2週間滞在し面倒をかけたが、ニコールは帰る日、「ハジメ お土産よ」といってニナリッチのオーデコロン、《PREMIERE JOUR》(初めての日)をプレゼントしてくれた。
暑さの話題。
7月21日~8月25日。
ボクがフランスに着いた7月の20日時点で、この3ヶ月、雨が降っていないといわれた。
1800年代後半以来の、記録的な暑さに襲われていた。
テレビのニュースの時間では、パリで40C。
ギがぶどうの取り入れの連絡でスペインのセビリアに電話すると、何と50Cを超えていたそうでだ。
パリではどこかの区で、郵便配達夫がこの暑さでは仕事できないと、ストライキをはじめた。
フランスでもスペインでもコルシカでも、膨大な面積が山火事に襲われていた。
山火事を消すために、カナデールという飛行機が消火のため大量の水を捲いている映像が連日テレビで写されていたが、ヘリコプターも動員されていた。
百姓のギが 「生れてはじめて、あんな大きなヘリコプターを見た」と、感激していた。
この近所 (リュベロン近辺)でも山火事があったらしい。
ヘリコプターが捲く水の量は一回で12トン。飛行機は半分の6トン。その映像は感動的でさえある。
このあたりはプールの使用禁止、個人の畑への水撒き禁止、リュベロン山登山禁止、外でのバーベキュー禁止などあり、罰金は1500ユーロでかなりの高額だ。乾燥による自然発火以外に、信じられないが、かなりの放火があるらしい。
付け火 でイタリア人が逮捕された。キャンプをしていた帰りに火をつけたらしい。
捕まって も最高刑が6ヶ月では、あまりにも軽すぎると、レイモンが憤慨していた。
生れてはじめて、多くの老人たちの顔を見た。
ニュースの時間には毎日、ビデオテー プの再放送を見るように、病院にいる老人たちを写していた。簡易ベッドに寝かされ、 廊下にも溢れていた。インタビューされても生気がなかった。
入院したの老人の30%が死んだそうだ。
毎日テレビで放映していたのは、毎日のように死人が出たからだった。
しっかりし た人数はわからないが、1万人以上の老人が脱水症状で死んだそうだ。
神戸大地震の2倍に当たる。
社会党が猛烈に政府を批判していた。
老人独り住まいのアパートや、老人ホームにエアコンが普及していれば、このような大量の犠牲は出なかったのだろうが、パリの小さなホテルにエアコンが着いたのは 最近だし、南フランスではエアコンがない車のほうが多い。
死体を収容する場所が足りなくなり、肉や野菜の冷房貯蔵庫に収容したらしい。
社会党の批判にも関わらず、一般的には「天災だから仕方がない」という意見が多かった。
明るい話題はぶどうの実りが大変よかったこと。
収穫も2週間程早く、今年のワイ ンは相当な当たり年になる、といわれていた。
話がずれるが、フランスでエアコンが普及してい理由として、物質面で日本より遅れているように感じられるが、全面的にそうではないと思う。
通常は日本の夏より過しやすいから必要無い。
その上、考え方の根本が違うのだ。
例えば、フランスの小、中型車ではパワーハンドルがオプションになっているようだが、日本では全装備整っているのが普通だ。
・無駄はしない・が、考え方の根底に あるのだと思う。
毎日の強烈な日射の中、ボクは散歩を欠かさなかった。  
ご馳走を5週間食べ続けるので、日本に帰り量りに載ると、例年3キロは太っている。
レイモンの奥さんが「いくらなんでも、乱暴すぎるんではないの。夜にしなさい」
と真顔でいわれたが、田舎道や畑の中を、夜歩く気にはなれないし、どうせなら100年に一度の暑さを楽しんでしまおうと思った。
歩く距離はだいたい8キロぐらいだけれど、太陽が灼熱の陽光を叩き付ける、さえぎるモノのがない道を歩くので、かえって爽快感がある。
家について水を一気に飲む と、汗が吹き出して大仕事をしたような気分になる話しかけてくる人が多い。
木陰で若い男女が語り合っているので、さり気なく通り過ぎようとすると、「ボンジュール」と声をかけられる。
仲間には入れてくれないが、 ボクも答を返す。
罰金1,500ユーロを屁とも思わず、畑で水撒きをしていたオヤジが、「イル・フェ・ショー」(暑いね)と話しかけてきた。前の年にも会っている。
彼はナントという町でサラリーマンをしていたが、近所の日本料理屋にはよく通ったそうだ。
・トリガイ・という名のコックが作る料理が抜群にウマかった、と話してくれた。
引退してリュベロンに家を建て、周りの土地も買って、百姓仕事の真似事をしている。
樫の木の林も作った。(トリュフは樫の木の下に出る)  
「樫の木を植えトリュフが見つかるのを楽しみにしているんだけれどさ、犬も飼っていないし、熱心には探していないんだ。
ほとんどチャンスはないしね。蠅が廻りで 飛びはじめるというけどね」。
こんなときは、どの辺で話を切り上げるか難しい。
夜の1時半過ぎ、近所ではまだ祭りが続いていて、バンドの演奏で踊りが続いていいるみたいだった。
ペルピニアンに着いた。アビニオンから汽車で3時間の旅。
1車両が半分に区切ら れた1等(グリーン車)にはエアコンが付いていた。
そういえばパリの地下鉄にもエ アコンが効いていた車両があった。
ポール・モーリアの奥さんイレーヌと、お姉さんのフランソアーズが駅に迎えに来てくれた。
奥さんは78才、お姉さんは88才ぐらいになる。
奥さんが運転し、お姉さんが隣で右だ左だと方向を指図するので、車はウインカーを出さずに方向を変える。
迷惑したバイクの若者が「ビエイユ・ピュット!!」(年寄りの淫売)と悪態をつくが、そんなことで動揺する二人ではない。
別荘に着き、みんながたむろするプールサイドに来ると、犬のカッチャが真っ先に駆けつけ、両足を高くあげてボクに飛びついてきた。
犬にも歓迎され嬉しかった。ポール・モーリアの別荘には10数年連続で来ている。
景色に変化はないのだが、 年輩組には欠席者が出てきた。
でも思い出の中では、いつも優しく微笑んでくれる。若者達の成長は凄い。
ボクがプレゼントの時計をあげると、黄色い歓声をあげ抱きついてきたソフィーは18才になり、もう決して抱きついてはこない。
身長は170 センチ。プールで泳ぐ友だちとともに、肉体は他を圧倒し、まぶしくて見ることが出きないが、本人は気付いていない。
ポールは今年の春、最も仲のよかった幼友達、ロロ・マルケッティーを癌でなくした。
一緒に過ごした去年の夏まで、食事の席で皆が退屈しているのを知ると、ユーモアに溢れた、しかし過激的な意見をとうとうと陳べ皆を興奮させた。
ボクらは彼を・ ディクタトール・(独裁者)とあだ名をつけていた。
今年の滞在中に彼の奥さんが招かれてやってきた。
フランス風の挨拶は今でも苦手 だが、一言もお悔やみの言葉は述べず、ただしっかり抱きしめてあげた。
奥さんも何もいわなかった。後で「ここにはバカンスの楽しい思い出しかないから、今でも出てきそうでとても辛い」といっていた。
この別荘には常勤の庭師と、広大な庭の一隅に建てられた家に、ポルトガル人のお手伝いジュディットと 同郷の亭主が住んでいる。
ジュディットは通常の掃除洗濯の ほか、イレーヌと昼飯の支度をする。
夏の間は大勢が揃って食べる昼食がメインになる。
亭主はここから通い運送会社に勤めている。  
この夫婦にはメリットがある。
ポール・モーリア夫妻が来ていないときは仕事がも く、自由に過ごせると思っていたのだが、「私は几帳面でね、隅から隅まで綺麗でないと嫌なのよ。それで二人が留守のときも仕事の絶え間がないの」と答えた。
言葉が ハキハキしていてテンポも早く、とても明るい。
その二人に養子が来たというのだ。
長い間子宝に恵まれていなかったので、然るべ きところに申請すると、難関を乗り越えて自分達が機会を得た、と大変喜んでいた。
生後2ヶ月でやってきた子供は一卵生双児だった。
二人とも笑顔が可愛くとても健康そう。ここに来て、もう8ヶ月になったという。
子供の国籍は不明で、育ての親には選ぶ権利がないらしいが、この子たちはとても可愛かった。このルシオン地域にも300もの家族が養子を待っていたのに、協会は貧しいポルトガル人の、しかもお手伝い家業の家に子供を授けてくれた。
「私達は貧乏で、何も優れたところがないけれど、きっと、子供を情熱を持って育てられる好い家庭と判断してくれたんだわ」と嬉しそうだった。
庭に作られた小さな家 は一気に賑やかになった。
ロロもバランタン(シャンソン歌手はスパゲッティーを食わない、参照)もいなくなったが、食事の会話はとても楽しい。
映画の話題が多いが、問題は各人の記憶力で、 スターや監督の名前が中々出てこない。
暑さのせいではない。
ポール・モーリアが「あのさ.........古いしきたりを守っている.........宗教の......?.........主役の俳優は誰だっヶ」ときた。
ボクがすかさず「ハリソン・フォード!」と 答えると、「それ!それ」と、答が出て満足そうだったが、会話の中にアレとソレとナニが多い。
恐ろしいことに、それで話が通じたりする。
(この映画は「刑事ジョン・ ブック目撃者」。迫害されアメリカにやってきたプロテスタントの一派、アーミッシュ の中に紛れ込んだ刑事と犯人の物語。ポールが最も好きな映画の一つ)。
心配になったポールは医者に相談に行ったそうだ。
「貴方ぐらいの年令なら、それぐらいのことで心配することはない。もしどうして もというなら、これを飲んでみなさい」と、薬を紹介してくれたそうだ。
3ヶ月たつ と結果が出る。「もし効いたらハジメに連絡するよ」といってくれた。ルフェーブルの息子ジャン・ミッシェルが、薬局を経営している兄に聞いた話しに よると、原稿を覚えるとか、その日限りの記憶力をつける薬はあるが、常用してはい けない、といわれたそうだ。  
ボクの好きなアンリ・サルバドールの歌に、《もう森へ行かない》という曲がある。「私の記憶力と希望は、今では街角で物乞いをしている」と唄っている。
フランス語の勉強で一番役にたつのは新聞を読むことだといわれる。
だからといっ て新聞を読める語学力があれば大したモノで、勉強の必要がないのだ。
超苦手な新聞だが、面白そうなマンガが載っていたので読んでみた。
マンガは、数人のアメリカの偉そうな人が、凄く慌てて怒っているフウなのだが、右下で小さなアヒルが、《ざまあ見ろ》とばかりに、左手を右手の肘に叩き付け、右 手を上に突き上げる動作をしているのだ。
これは右手の手の平を開き、中指を立てる動作と同じような、蘊蓄を含んだゼスチャーで、ある程度の教養を身につけた人なら、誰でも意味を知っている。
この動作が スムーズにできるよう勉強して欲しい。
いつか役にたつと思う。(分からなかったら、 山崎までメールをくれれば返事します)。
記事の内容はこうだ。  
《当社では単なる好奇心と腕試しで、世界最高の機密を誇ると思われる巨大企業のコンピューターに入り込んでみた。ところが意外に防備が薄く、驚く程簡単に内部に 入り込むことができた。
もちろん犯罪行為は一切おこなっていない。
それではと、世界の最高峰アメリカFBIのコンピューターにも侵入してみたが、これも易々と内部を見ることができた。
その証拠に、ごく簡単な、しかし内部のモノにしか絶対に分からない情報を掲載させていただく》。
この新聞は、ル・カナール・アンシェーネ(繋がれたアヒル)という。
創業から100年を誇り、毎週水曜日に発行され、スイスやベルギーでも売られている。
そして いかにもフランスらしいこの新聞の特徴だが、広告がないのだ。
新聞はもちろん、 広告によって経営が成り立っている。だから自分の会社の一大スポンサーが悪事を働いた場合、それを叩くことはできない。
だから、アホでも分かることだが、発行部数 1000万部などという新聞は《真実》が書けないのだ。
この新聞は広告に頼っていないから、相手が大企業だろうと、政府だろうと宗教だろうと、真実を告げる報道に遠慮会釈がない。
ジャーナリズムとしてこれほど痛快な ことはないではないか。
今迄、訴えられるたことは星の数ほどあれど、裁判では一回 も負けたことがないという。
アヒルは、たとえ繋がれてもギャーギャー騒ぎ、真実を 暴く、というのが新聞の名前で、フランス魂が100%発揮されているではないか。
日本のクイズ番組《クイズ・ミリオネア》は賞金が一千万だが、フランスでは全く同じ形式で行われ、賞金は100万ユーロ(1億3千万円)なのだ。
フランスでは夏の間、土曜を除いて、毎日夕方の7時から放送されていた。
(詳しくは昨年のエッセ イ、クイズ・ミリオネアフランス版と仏語発音を読んでください)。
ボクは毎日見ていた。フランス語の勉強になるのだ。
モーリア亭で10日間。ルフ ェーブル亭で14日間、ジャン・ミッシェルの家で5日間。
テレビドラマのテーマ曲とか、フランス人にしか分からない問題も多いが、分かるととても嬉しい。
しかしながら回答者のレベルの低さにはビックリした。
最初の内は 今日はレベルが低いな、と思っていたのだが、程度は毎日同じだった。
例えば、「ブルガリアの首都はどこですか?」と問題が出て、画面下に四つの答えが出る。
「ワルシャワ」、「ブリュッセル」、「ソフィア」、「ウイーン」。
正解を一つ選べいいのだが、しばらく考えて「オーディエンスお願いします」などという。
ポール・モーリアもレイモン・ルフェーブルもジャン・ミッシェルのもあきれ果て怒っていた。
3人が一緒に見ていたわけではなく、それぞれの家で、ボクが見ているとお相伴してくれたのだ。
今年の夏がシャルル・トレネとどのような因果関係があったのか分からないが、テレビでトレネの生家を探訪した番組を見た。
かなり大きな家で、彼が貧しい環境で育っ たのではないことを知った。
インタビューされた多くの人々が、フランスのシャンソン界では、彼が文句なしの ・1と答えていたが、少年に暴行をはたらくような人格は認められないとする、少数意見もあった。
ロマン・ポランスキーやマイケル・ジャクソンにも、同じようなスキャ ンダルがあった気がする。
ポールから、「ハジメはシャンソン歌手で誰を筆頭にあげるね」と尋ねられたが、「シャルル・トレネです」と答えた。
ポールも同じ意見だった。 ポール・モーリアの別荘では、料理の種類や量も豊富で、招待客も多く食事は凄く楽しい。
庭の野菜畑から採ってくるもぎたてのトマトなどは、大きく、甘みがあってみんなに食べさせたい。
その上この家で食事をすると、数日後にはチョウ快便になるのだ。
温野菜や生野菜、肉類、果物、豊富なチーズ、ケーキ、アイスクリーム等々。
(詳し くは『シャンソン歌手はスパゲッティーを食わない』参照)。
昨年のある日トイレで、ショウに続いてダイの抽出がはじまった。
ズズズッ、ズズ ズッ、ズズズッ、と押し出されたダイが、じりじりと距離を伸ばしていく。「こんな に長いのは新記録だ!」と快感に浸っていると、ダイは引力の法則に叶わず千切れた。
が、その満足感は忘れることができない。
すぐにその話を奥さんにした。奥さんも自分の料理について、いままで経験のない表現で誉められ、満足そうだった。
数日後、昼前に、「アンタチョット来なさいよ」と奥さんから呼び出しがかかった。
「今朝、庭に大きなウンコがしてあったのよ。ハジメね」というのだ。
「間違っても ボクではありません」と、小学校の一年生みたいに答えた。
「そう、あまり臭くはなかったから、カッチャ(犬の名前)かもしれないわね」と冤罪は免れたが、奥さん得意のブラック・ジョークだった可能性が強い。
今年の夏最後の5日間はジャン・ミッシェルと過ごした。
リュベロンのレイモン・ ルフェーブル亭からジャガーで出発、マコンで一泊し、また蛙を食った。
やはり蛙は それほど美味くはなかった。  
ジャン・ミッシェルは、ボクと違って同棲とかの経験もない純粋な一人暮らし。
パ リの南45キロのモルサンという処に住んでいる。
近所にはミレー、コロー、ルノワー ル等、印象派の画家達で有名なバルビゾンという村があり大きな家が並ぶ。
ここも大 きな家で、掃除だけでも気が滅入りそうだが、料理もレパートリーが豊富で、独身貴 族を楽しんでいる。  庭がセーヌ河に面し、釣りが出来る。白鳥やアヒルは野生だが。
フランスパンを叩 いて呼ぶと、警戒しながらも近づいてくる。
ジャン・ミッシェルの欠点は一つ。
この家に来てセーヌ河で泳がないと、催促する のだ。
セーヌ河は、パリの上流とはいえ綺麗ではない。
しかし居候は辛く、脅迫され ると負けてしまう。
「エイクソ!セーヌ河で泳ぐ日本人はオレぐらいだろう。ここで泳げば我がシャンソンにも箔がつくぜ」。
独り言をいいながらへっぴり腰で泳ぎ出すが、白鳥や鴨に近 づけるときはとても楽しい。  
夕方レイモンから電話が入った。無事に着いたか心配していたのだ。ジャン・ミッシェルが長いあいだ話していた。  
「父がいうにはさ、今年は100年来の猛暑で、河の温度も記録的に上がり細菌が氾濫している。 あちこちの河で遊泳が禁止されてたけど、昨日からセーヌ河も禁止に なったって、テレビで見たそうだよ」。  
多くの河川が遊泳禁止になったことは、テレビのニュースで知っていたが、うっか り忘れていた。今年の春《サーズ》が蔓延したように、セーヌ河病原菌がボクを媒体に日本で繁殖 し、シャンソンが大流行してくれるといいのだが。
追伸。今年もフランスから絵葉書を日本の友人に書きました。
コンサートのお客様や、 友人たちに。
歯医者さんには、「先生の治療のおかげで、美味しくフランス料理を楽しんでいます」と書きました。
住所を書くのが大変なので、日本でタッグシールに印刷していったのですが、中に はリスト漏れになってしまい、失礼した人もたくさんいました。
あまりにも人数が多くなりすぎたので、ポール・モーリアファンクラブの皆様には、 メールで近況を伝え、失礼させていただきました。
田舎の郵便局で、先ず一枚、日本迄の切手を買い、続いて「この切手を147枚下さい」と頼むと、「パルドン?」(何ですか)と聞き返されました。もう一回、「こ の切手を147枚下さい」と頼むと、何だか分からない風で人の顔を見るのです。
後ろに並んでいた男性が「切手、147枚だよ」と助け船を出してくれて、中年の、 郵便局オバサン局員はようやく理解したようでした。
局の中で切手を貼ったのですが、 スポンジを運んできてくれたオバサンも、こんにに大量の葉書を出す人をはじめて見 たと思います。