山崎 肇 シャンソン教室「レ・ザンファン・テリーブル」
来日した、フランスのオーケストラや歌手たち、超一流の音楽家達と40年にわたって一緒に仕事をした先生が舞台で培った垢抜けた歌唱法を指導いたします。
(略歴はこちらでご覧下さい)
一般的にシャンソンと言われる今の歌手とは、歌い方がだいぶ違います。
伴奏はコンピューターで作るバンド演奏で、とても唄いやすく、キーもテンポもすぐ変更できます。フランス語でのシャンソンは、日本では知られていない名曲のストックがたくさんあります。
フランス語が難しいと思われる方には、カナを振り、優しく発音を勉強します。
もちろん、日本語訳詩のシャンソンも大歓迎です。
一年に二回、ヤマハ銀座スタジオで発表会をしています。
発表会については、こちらをご覧ください。
料金は一時間一万円です。入会金なし。
※「レ・ザンファン・テリーブル」について
私たちのシャンソンを愛し唄う会「レ・ザンファン・テリーブル」は発足して約20年を迎えます。「レ・ザンファン・テリーブル」とは、ジャン・コクトー(Jean Cocteau, 1889/7/5 - 1963/10/11)が1929年に発表した小説「恐るべき子供達(Les Enfants Terribles)」から来ています。
この会のモットーは、まず品がいいこと。これは選曲にも、唄い方にも、服装やお化粧、そして生き方にまで、全てに言えることです。
フランス語歌詞で唄うか、日本語歌詞がいいかはそれぞれの自由ですが、やはりフランス語が多いようです。
「いい声でしょう」とか、大声で唄うハッタリの歌は好まれません。粋じゃないですからね。
服装はドレス禁止で、高級レストランで夕食をするような、エレガントな様子が推奨です。お化粧も同じ、キャバレーのような華美なものはダメです。
「気がつくと垢抜けている」が理想ですが、指導するのは生涯世界の一流ミュージシャンや歌手と仕事をして来た山崎 肇、知識は山のように蓄えています。
それなら私もそこで唄ってみたい、と思われたらご一報ください。
Vivre pour Vivre
2017年にフランスで録音されたアルバムです。
今回もパトリス・ペイリエラスがプロデュース&アレンジしてくれました。
試聴とネットからのダウンロード販売はしばらくお待ちください。
Aimer / 愛する
2012年にフランスで録音されたアルバムです。
曲のアレンジと伴奏をやってもらったパトリス・ペイリエラスは、1990年頃にレイモン・ルフェーヴル・グランド・オーケストラの日本ツアーでキーボード奏者として活躍していた時に知り合いました。その後、彼はフランスでも指折りのアレンジャー&プロデューサーとなり、2018年には「男と女」「白い恋人たち」「ある愛の詩」など数々の映画音楽作品を生み出したフランシス・レイから、自身のオーケストラの日本公演にあたり、その企画や編曲そして指揮までを任されるまでになった人物です。
1曲目〈Aimer 愛する〉と14曲目〈Funambule 綱渡り師〉はパトリス・ペイリエラスのオリジナルでとても美しい曲。他の曲は全てシャンソンスタンダード。全曲フランス語です。
ネットからもダウンロードで購入できます。
また以下のサイトでは、各曲とも一部をサンプルで聴くことができます。
Apple iTunes
Amazon Music
シャンソン歌手はスパゲティを食わない
国際的なアーティストとの魂を揺さぶる交流が、感動を呼ぶ本。
国際的なアーティストとの魂を揺さぶる交流が、感動を呼ぶ本。この本は、ポール・モーリアやレイモン・ルフェーブル、リチャード・クレイダー マン、ミッシェル・ルグランなどのオーケストラ。そして歌手の方では、シャルル・ トレネ、アダモ、エンリコ・マシアス、パトリシア・カースなど、多くの、主にフランスアーティストの司会や通訳をつとめた山崎肇が、軽妙でユーモアに溢れた文章で 語るエッセイです。
毎年、ポール・モーリアとレイモン・ルフェーブルに招かれて過ごす、南フランス でのバカンスの出来事。スターたちの普段の顔や田舎の人々との友情。中年過ぎて再び唄いだした、シャンソン歌手としての苦労やどたばた劇など、音楽やフランスに 興味がある方々には、見逃せない一冊です。
定価 1,700円(税別)
例えば「今日はローチェーのローソーがあってよ」などと言うが、腹を下したわけではない。
チェロのソロがあったと言うのだ。「いやーダリフンダリケツだったよ」はケツの話ではなく、 踏んだり蹴ったり。イモなヤツはモーイー。ダメはメーダーと言う。
歌でも司会でも、 あれはメーダーだねと噂されたらお終いで、シーメーの食い上げになる。
こんなわけでビックリ仰天はクリビツテンギョウだが、これがわかるようになると、ミュージシャンでも三つ星クラスになる。
自分のエッセイが本になると話しがあったときは、クリビツテンギョウだった。 たいして有名でもない司会者と歌手のエッセイなど、出版社にお百度を踏んでも実現は不可能だと思っていた。反面、このエッセイを読んでくれた読者から、出版しろ出版しろと励まされていたから、うんと音楽好きな出版業界の人に見てもらえるチャンスがあればと、一縷の望みも持っていた。
それにボクは、ときどき幸運に恵まれる。戦後のどさくさ時代に、フランス語を教える「暁星学園」に入れたことが最初の幸運かもしれない。60才を過ぎて、南フラ ンスの田舎道を散歩しながら、小学校の頃から上り下りしていた九段の坂道が、ここまで続いていたかと思うと、感無量になる。
全く音楽的教養なしに、宇井あきらという先生にシャンソンを習いはじめ、6ヶ月で、銀座にある「ホテル日航ミュージックサロン」で唄いだした。ここは、シャンソンやラテン音楽では最も格調高いライブハウスで、6ヶ月の見習いが唄えるような場 所ではなかった。すぐにエリート集団だった石井好子の「石井音楽事務所」に入り、寄らば大樹の陰か「キング・レコード」のオーディションにも合格。レコードも発売されたが、思い出してみると、どのぐらいの人々にお世話になったかわからない。
お世話になった人々を裏切るように、歌にあき司会に専念しだした。おかげで、フランスを代表する全てのオーケストラの司会をした。ボクに仕事をくれたのは業界最大手の「キョードー東京」だった。
そのオーケストラのリーダー二人、ポール・モーリアとレイモン・ルフェーブルが、 毎年ボクをフランスに招待してくれている。おかげでもう10数年、チョー貧乏な司会者けん歌手が、夏を南フランスで過ごしているのが可笑しい。
かと言ってお金には縁がなく、CDが売れすぎて困ったとか、宝くじに当たるような幸運には恵まれないが、どういう風の吹き回しか、5年か10年に一回ぐらいチャ ンスの神様が頬をなでてくれる。
歌手は、いくら上手くても人気がゼロではプロともいえない。本は出版されても売れなければ話しにならない、と思う。
ベストセラーを夢みて、「千と千尋の神隠し」ではないが、八百万の神々が集まる風呂屋でも見つけ、五円玉のお賽銭とか柏手30連発で祈りまくり、貞操を売る以外何でもするぞと決意は固い。
このエッセイは友人であるギター奏者、佐藤ペタさんが出している、裏表4ページ、購買者数300人のミニコミ新聞に連載されていたものだが、ボクが一緒に仕事をし たフランスのアーティスト、ポール・モーリアや、レイモン・ルフェーブル、リチャー ド・クレイダーマンやシャルル・トレネ、アダモなどとの交友、自分自身の南フラン スで過ごしているヴァカンスの様子が書かれている。
小さな二つの部屋には東から西まで窓が4ッついていて、日当りが良く鳥の鳴き声も聞こえていた。不動産家が宣伝するなら日照最高、地下鉄表参道駅から徒歩5分という便利な場所だった。自分の年齢を顧みることなく、青春と一緒に住んでいた。
問題は歌手時代の譜面と自分が出演したコンサートのプログラムなどで、思い出がいっぱい詰まっている。1960年代半ばから80年代前半にかけて、パリ祭のシーズンには2チームに別れてコンサートツアーをしていた。
芦野宏、石井好子、深緑夏代、この当時から年寄りだった人々は、今はもっと年寄りになったが、恐ろしいことに若者達より元気に活躍している。加藤登紀子、堀内美紀、田代美代子、大木康子、年賀状は書かないがだれ一人忘れたことはない。
会うと必ず、「お前さんまだかい?そんなフーだと(女性しか愛せないと)人生の喜びの半分しかわからないんだよ」と冗談で口説かれたが、今でも人生の喜びは半分しか知らない。
トリ(最後の唄う人)はたいがい来日中のフランスのアーテイストだったからボクが司会し、出番が多かったので、そのイモぶりは目立つ存在で女の子にはよくモテた。
パリ祭以外でも、休みがないぐらい毎日唄っていたが、そんな記念のプログラムも、「俺は思い出に生きない、人生は前進あるのみ」と全部捨てた。僕の紹介の部分にはいつも、岸洋子が、「良い声と明るい風貌からキングレコードに推薦した」と書かれていた。そのキングレコードでのデビュー版(1965年)には、自分の文章だと思われる、高校野球の選手宣誓みたいなものが載っていた。
譜面も凄い量だった。コンボバンドの譜面、フルバンドの譜面、引っ越しの頃には司会だけしていて、かれこれ10年は唄っていなかったから、生涯必要はないだろうと全部捨てた。
カミさんはもう何年も前に僕を捨てて出ていっていた。
唄っていた時代にも大勢のシャンソン歌手の司会をしていた。シャルル・トレネ、ジョセフィン・ベーカー、エンリコ・マシアス、アダモ、ジャックリーヌ・フランソワ、ジャン・サブロン。アメリカ人だけど〔愛の賛歌〕でスターになったブレンダ・リーの司会をしたのも何かの因縁だろうか。
やがてイージーリスニングの時代になり、ポール・モーリア、フランク・プールセル、レーモン・ルフェーブル、リチャード・クレーダーマン、カラベリ、ピエール・ポルト、変わったところではアルフレッド・ハウゼやデユーク・エリントンオーケストラの司会もした。
旅行はいつも、ピータイ・メイルの「プロヴァンスの12ケ月」で有名になった、ルフェーブルの別荘があるリュベロン山からはじまる。そう遠くないところにアビニオンの折れた橋、2000年前に作られた雄大なローマの水道橋〔ポン・ドウ・ギャル〕。多くの教会やカテドラル(大聖堂)も訪ねた。
ロアール河のお城巡り、優雅なシュノンソー城、男性的なシャンボール城。あまり外国人観光客の来ない名所旧跡や、オトギの国かと思うようなシャトーテル(食事中心の超豪華な小さなホテル)にも随分泊まった。
フランス中を引きずり回され、ナンダ、愚か物に教育をほどこしているつもりなのかと疑ったりもした。
でもそれが効を奏したのか、パリでは今まで見向きもしなかった美術館に通うようになり、オルセー美術館では何処に何の絵があるか諳んじるようになったが、絵がわかるようになったわけではない。
美しい風物を見、暖かい友情につつまれて人格が変わってきたのか、それとも単なる年のせいか、本職のようだったパチンコ、マージャンをやらなくなった。
新聞は日本経済新聞に変わり、週刊誌もポストから新潮になった。ジムに通って体も鍛えだした。今ではアーノルド・シュワルツネッガーとは言わないが、〔マジソン群の橋〕のクリント・イーストウッドぐらいにはシマってきた。
フランスでは時々、人々が集まったディナーの後に唄わされた。伴奏はポール・モーリアかレーモン・ルフェーブル。あまり伴奏に文句をつけたことはない。
いつも歓迎してくれる感謝の意味を込めて、次は皆が知っている名曲を唄おうと、今まで興味をなくしていたシャンソンをまた覚えだし、ピアノの独学もはじめた。
猛勉強の一年後、ディナーのあとの歓談のときに、見事なまでにおぼつかないピアノの弾き語りで〔サクランボの実る頃〕を唄ったら、お世辞上手のフランス人たちは「ハジメは才能を隠していた」と努力を褒めてくれた。
歌の方も、練習をはじめてから一年間でだいぶ変わったそうだ。アホは褒められると止まらない。すっかり舞い上がり、いらい馬車馬のごとく?シャンソンにハゲんでいる。
司会をしてきた多くのアーテイストの魂、美しい風物やつちかった友情の温もりがにじみ出た、いい歌を唄える日も近いと願っている。
僕の夏休みは、アヴィニオンの南75キロ、リュベロン山に別荘があるレイモン・ルフェーブルと、スペインに近いペルピニアンに別荘があるポー ル・モーリアの二人が、費用の全額を支払って招待してくれる豪華なもので、もう長 いあいだ続いており、毎年約一ヵ月滞在している。東京ーパリ往復の航空運賃は、二人が交互に支払う。フランス国内では、僕を泊めた人が次の予定地まで、切符を買うとか車で送ってくれる。 小遣いはつかないが、催促したことはない。
なんでこんなに親切にしてくれるのかよくわからないが、もう5、6年以上続いている。皆ヤケになっているのかもしれない。
シャルル・ドゴール空港には、レーモン・ルフェーブルの次男ジャン・ミッシェルが、中古で見つけた骨董的ベンツで迎えに来てくれた。この人はウッドベース奏者だが、シャンソン歌手の杉田真理さんや、奥田晶子さんのCDの編曲もしている。
イッキに400キロ南に下り、最高級ワイン《ロマネ・コンティ》で有名なブルゴーニュ地方、マコンのモーテルに泊まる。余談だがこのワイン、最低でも一本30万円はする。
運悪くレストランはまだ開いていて、会話のなりゆきで蛙を喰うことになってしまったが、話の種に、なにか珍しい食べ物があったら、なるべく食べるようにしている。ソーヌ河が流れるマコン近辺には池が数千もあり、蛙が名物になっている。
皿に盛った蛙をテーブルに置きながら女あるじが、「恐がらなくてもいいのよ」と言ったが、なんのことやら意味がわからなかった。やがて大盛りの蛙が運ばれてきて、ようやっと意味が理解できた。「恐がらなくてもいいのよ」は、もっとたくさんあるの意味だった。しかし大盛りの蛙は、恐いような雰囲気をただよわせていた。
ニンニクやオリーブ油、香草のきいたソースはエスカルゴのソースに似ている。小さな蛙のモモの肉は、よく揚げられていないと味が落ちるそうだが、小さな骨を吐き出すのに忙しくそう数ははかどらかった。しかし、これでボクの低音にも磨きがかかるかもしれない。おかげで夜はヨツンバイになって寝た。
夫妻をはじめマゴの15才になるマティユーと、12才になる妹のクレマンティーヌが出迎えてくれた。
マティユーはこの1年で背丈がナント15センチも伸びたそうで、184センチある長身をかがめてホホにチュッ、チュッと挨拶をしてくれた。
クレマンティーヌは色っぽくて、昨年はもう胸が小高く盛り上がっていた。「だいぶ成長が早いですね」とルフェーブルに問いかけると、「来年あたりはもう鍋にのっちゃうな」と嬉しそうだったが、彼女の少女ッポイ目つきからは、まだボーイフレンドに食べられてしまったような雰囲気はうかがえなかった。
兄姉は、毎年のプレゼントのせいか僕に好意を持ってくれている。3年前はカシオのGショックで文字盤に明かりがつく腕時計を、今年はアルバのスプーンをあげた。みな最新流行のグッヅなので、学校に持っていっても鼻が高い。
きっと学校では、「ボクの音楽家のオジイチャンにとても立派な日本人の友達がいて、毎年ヴァカンスに来てプレゼントをくれるんだ」、と自慢しているに違いない。
このオジサン、ときどき意味がわからなくなるが、フランス語を話す。ペタンク(フランスの球技で大変盛ん)をやると近所の人がみんな負けてしまう。ボクも一回 サシで勝負を挑んで、13対0という屈辱的敗北をきっしてしまった。何しろ任天堂の64ビットの国から来ている人だからスゴイんだ。ぐらいの話はしているのかもしれない。
フェリシアン一家はフランスには珍しいプロテスタントで、その昔カトリックの迫害にあいこの地まで逃げてきたそうだ。アフリカに逃げた人々もいて、北アフリカには、フェリシアンの名字がいまだに残っているそうだ。
葡萄を主に、季節によってはサクランボ等も栽培している。長男のジルは38才、父親と共に日焼けした顔はとても逞しい。オジイチャンの影響でジャズが好きで、地元のアマチュアバンドでトロンボーンを吹いている。
5年前に結婚したとき、仲間が全員集合して演奏をすることになったが、そこで気がついたのが、近所に越してきたレーモン・ルフェーブルだ。恐る恐る一曲指揮をしてくれないかと相談にいくと、気持ち良くOKしてくれた。
葡萄畑の真ん中にある、コの字型に並んだ、200年はかるく経つ石の家の中庭には、披露宴の日、親戚や友人達が急ごしらえのベンチに腰掛け、その前では新郎も入ったビッグバンドが、ジャズの演奏をはじめた。
そしてレーモン・ルフェーブル登場。40才以上の人なら、フランスで知らない人はいない。グレン・ミラーの「インザムード」を指揮した。
仲間たちは生涯最高の演奏ができたと語りあったそうだ。それで5年たった今も、プールの端にはお礼の野菜が届けられている。
奥さんの子グレゴリーは、14才で背丈は180センチをこえ金髪。目元に色気さえただようチョー美男子で、リチャード・クレイダーマンも裸足で逃げだしそうだ。ルフェーブルのマゴのところには125ccのモトクロスで遊びに来る。
クレマンティーヌのところには、フェリシアンの親戚で、15才と14才の姉妹が遊びに来る。両方とも立派な成人の体格をした美人で、とくにお姉さんのほうは眩しいぐらい。ホホにチュッチュッと挨拶をするときには、思わずミダラなことを考えて しまう。
シャローン・ストーンのような体に、まだ幼さの残った顔がのっているので、そのアンバランスな幻想的魅力は恐いくらい。視線があうときには、思いを悟られないようにニッコリ笑ってごまかすが、「想像するぐらいは許してあげるわ」と、ぜんぶ見破った眼差しが悩ましく語りかける。オレは少し変態なのかな。
ホホにチュッとするフランスの挨拶は、確率的には相手の左側からいって右に移る方が多い気がするが、どちらでもよいのだろう。唇のハシを少しつけてチュッと音をさせるが、ブスッというような下品な音をたててはいけない。屁をこいたと間違えられる。
たまに日本人どうしでこれをやっているのを見かけるが、世の中にこれ以上最低なものはない。
なんだこれは?きっと、最大の親愛の情をしめすために、どうサヨナラを言おうか考えぬいてこうなったんだろう。瞬時に判断して、ボクも生まれてはじめて、タイの坊さんみたいに合掌して頭をさげた。お尻のあたりがムズムズと痒くなってしまったが、ヨシ来年は最高のオミヤゲを持ってくるぜと心に誓った。
長距離列車グランドゥ・リンニュはジョルジュ・ブラッサンスの生まれたセットや、シャルル・トレネが生まれたナルボンヌを過ぎて、これからやっかいになるポール・モーリアの別荘地、ペルピニアンに近付いて来た。
左側は地中海、右は入江。列車は海岸の真ん中を走っているような幻想的な雰囲気。
トレネはこの海を見てラ・メールをつくった。
それも5時半からはじまるのに2時のリハーサルから付き合わされて。
この中学校には約700人の生徒がいて吹奏楽部員は72人。なんと一割が部員だからそうとうな人気だ。その部員も一人を除いて全員が女子生徒と変わっている。僕だったら、そんなところには喜んで入ってモテまくりたいと思うのだけど、年々男子生徒の数は減ってくる一方で、原因は不明だそうだ。
男子中学生はその美学を、茶髪でダブダブのズボンをはき、ケイタイ持って渋谷あたりをうろつくあたりに求めているのだろうか。
今年この吹奏学部は、全国大会の関東大会予選を次点で涙を飲んだそうだが、72人全員で演奏する一曲目から、軽快で迫力あるサウンドにひきつけられていった。10本のフレンチホルンや15本のクラリネットは、多少のミスがあってもパワーではねのけてしまう。チューバなどは楽器を見ているだけで楽しい。
一曲めの演奏が終わると司会の少女が出てきて、顧問の先生にどなりつけられながら練習した、辛く、でもやりがいのあった思い出など話すから、僕の胸も少女のようにジーンと高鳴り「頑張れ」と応援しだしていた。
彼女達のひたむきな気持ちは、音楽を通じて少しずつ伝わってくる。タムタムを肩から吊るした生徒の、タカタッター、タカタッターと続くリズムはびしっときまって、曲の終わりまで寸分の狂いもない。鉄琴やシロフォンの旋律には一音のミスもなく、リズム感もたいしたもの。シンコペーションにも躍動感がある。
考えてみると、最高学年である3年生のキャリヤは2年半、1年生にいたっては半年。はじめて楽器を持った子供たちが、ここまでの演奏をするのは並大抵の努力ではないはず。
聞くところによると、放課後の長時間練習などはざらで、コンサートが迫ってくると、7時からの早朝練習というのがあるそうだ。そこにいくと超ベテランぞろいのシャンソン歌手達は、朝帰りがあっても早朝練習はしない。
一部が終わったあとには、先ほどまでの憂鬱な気分はどこかに吹っ飛んでいた。
さすがに10周年を迎える歴史があるだけに、プログラムはバライティーに富んでいて、二部にはクラシックの他にマーチングがあった。水兵さんのような衣装を付け、前後、左右、斜めに動きながら演奏する。
そして司会の少女が出てきて、大勢の部員との出会いの喜びと、今日で別れる辛さを語る。何もできなかった手が楽器を持ち、そこから生まれる音楽に限りない感動を覚え、それをまた、お客様と分かち合う喜びを知ったとうったえるから、観客の胸にも熱いものがこみ上げてくる。
コンサートの終わりにはコーラスでメモリーも唄った。手をつなぎあった子供たちが万雷の拍手を受けたとき、手をほどいて涙を拭う子が大勢いた。
僕の曇った目玉からも涙がポロポロと落ちていた。
そして指揮をした顧問の先生が「このコンサートを最後に引退する3年生24人をご紹介します」と挨拶した時、雰囲気は最高に盛り上がり、リハーサルでの先生の言葉を思い出した
「いいか僕が名前を呼んだら大きな声で返事をしてくれ。最後の舞台で先生と君らを繋ぐ絆は、ハイと言う返事にしかないんだから」・・・。
「山崎よし子!」・・・「ハイッ!」生徒は一歩前に出て誇らしく答えた。
アンコールの曲は〔テキーラ〕。
「マンボ!」、「ウッ!」、「テキーラ!」、少 女達の合いの手も見事に決まった。
最後に卒業生が残したメッセージをプログラムの中から一つご紹介しましょう
少女達が音楽をつうじて得たものはとてつもなく大きい。
得たものもたくさん持っているが、失ったものも大きい五反田のオジさんは、船橋から下手な歌を口ずさみながら帰ってきた。
チョット複雑ですが、「あがらない方法はない」が答えです。
ナンダとがっかりなさったら貴方の間違いで、あがらない人はいないと知ることは、あがらない方法でもあります。
ごくまれに、私はあがらないという人がいますが、人間とも思えません。
ボク自身いまだに、舞台の袖で震えがくるときがあります。
そんなときは、「おまえは家でテレビを見ている自分と、今の自分のどちらを選ぶんだね」と強く自問自答して、舞台袖の自分を選ぶのです。なぜなら、こちらは職業だから逃げるわけにはいかないし、どっちみち好きなことをしているのだし、うまくいけば恰好いい。今まで大した失敗もなくやってきたのだから、今日 もだいじょうぶと言い聞かせる。
ドキドキしてきたら、「オヤ、ドキドキの神様またおこしになりましたか」などとおどけながら、気をまぎらわせます。
少し震えるような経験をしていた方が人生は楽しいし、終ったあとの解放感もたまらないものがあります。
もっとも箸を持つ手が震えだしたら困ってしまいますが。
そのテーマ音楽、「夜は恋人」を演奏し人気があった、トランペットのジョルジュ・ジューバンと、石井好子さんがこの話題を話していました。
ジューバンはコンサートのまえ、常にコアントローというリキュールをひっかけていましたが、これも対策のひとつだったかもしれません。
二人は、あがる最大の理由は練習不足と言う結論にたっしました。
きっと大失敗をするのではないか、などのマイナスイメージは一番の禁物です。
頭脳に関する本を読むと、常にプラス思考を進めています。大失敗なんてめったにしないのですから。
刺激を与えると脳の働きは活発になり、ドキドキしたら貴方の目は何時もより輝き、顔も引きしまって美しくなるでしょう。
50人ぐらいのお客様はぜんぶ歌手の友人たちで満員でした。
一人の70才はこえたかと思われる女性が、必死に、本当に震えながらバンドにあわせて唄いましたが、眺めていて微笑ましくおもいました。素人ながらプロみたいに唄う、こまっしゃくれた歌手よりよほど新鮮でした。
普通の人々の毎日の生活の中で、これ以上つよい刺激を得られる機会が、他にあるでしょうか。
あがっていた彼女の姿は魅力的でさえありました。
その方は一流企業の社長さんで、糟糠の妻とは6畳一間のような暮らしから今の時代を築き上げました。
やがて新郎新婦になる二人も同席していましたが、食事のあいまに僕のお茶碗が空になりそうになると「オイ山崎さんのご飯のお変わり!」と妻に命じ、亭主関白ぶりを発揮していました。
お会いすると、「どうも家にいると落ちつかなくてな。悪いな、貴重な時間をとってしまって」と謝りました。
そして「両家代表の挨拶を考えてきたが、これでいいだろうか」と相談されました。一流企業の社長が考える文章に、若輩者が指摘するような、間違いがあるはずもありません。そして「何かほかに注意することはないかね」と相談されました。
家で僕を歓待してくれたご夫婦のようすを思い出しながら、「家ではいつも亭主関白でいらっしゃいますね。奥さんに『きみにはいつも世話になるね』とかお礼を言われたことはないでしょう?」と尋ねてみると、「もちろん。そんなこと言えるはずがないじゃないか」と答えが返ってきました。
花束贈呈のあと、親族を代表して社長の挨拶がはじまり、理路整然、見事な謝辞がはじまり、とつぜん言葉が乱れだしました。 「まあ......こんなわけで......私たち家族の......ええ......幸せな姿を......ご来賓の皆様に見ていただけるのも......長年にわたって苦労をかけた......、......ここに いる妻のおかげです」と言ったのです。
社長はあがったのではなく、盛り上がった感情を押さえきれなかったのですが、乱れた言葉は来賓の心をうちました。
やけくそになることです。うまくいっても失敗しても自分自身。
いつも100パーセントの力を発揮し続ける人はいません。
緊張感なしの人生なんてつまらないではないですか。