HOME > ESSAY > Essay04

サヨナラ

 
6月の15日火曜日、よく晴れた心地よい日の朝9時、サラリーマンが仕事をはじめる時間に、プロモーターの内野二郎さんが永眠した。 
77才の誕生日を迎えるまで、あと2週間ほどだった。 

前の週の金曜日に、東戸塚にある内野さんのマンションにお見舞いに行ったのが最後の別れになったが、少しの時間でも一緒に居ることができ、生涯の思い出になった。
東戸塚のマンションはエレベーターが3台動いている巨大な建物で、同じようの建物が三棟ほどあり、約700メートルの距離をデパートとスーパーが軒を並べ、駅まで濡れずに歩いていける。 
17階の部屋からは富士山も眺められた。
10年ほど前、妻を失ったあと引っ越して来た最大の理由が景色だったらしい。 
内野さんのマンションには、廊下、居間、和室と、骨董(古い道具類)がところ狭しと並んでいた。
どの部屋のどの骨董も、マリー・ローランサンの絵や、ルネ・ラリックの花瓶、いかにも値打ちのありそうな古い壷も、一見雑然とした中に持ち主の趣味がうかがわれ、暖かな雰囲気をかもし出していた。 
12チャンネルのお宝探しの番組で、お宝をたくさん持っている家に鑑定家が行くコーナーがあったが、中島誠之助さんがあまりにもまとまりがないコレクションを見て、「骨董にもピンからキリまであり、最下級を猫マタギという」と酷評していた。
クダラナイ骨董は猫も跨いで通るのでこう呼ばれるらしい。
ここにある骨董は、無秩序の中に調和があり、人柄を表しているようだった。 
長いお付き合いのあと内野さんが、ロマンティックな一面を持つ、詩人的感覚の人だと気がついたのはごく最近のことだった。
本棚には「良寛」など、精神的な成長を求める本がたくさん並んでいた。
文庫本がないことも、骨董品とよい調和を保っていた。 

寝室に入って、キングサイズのベッドに横たわっている内野さんと目が合ったが、ボクは何もいわずににっこり笑い、内野さんは、よく来てくれたねと目で合図をしてくれた。 
その目は暖かみに溢れ、病に倒れてからまた一段と人間のスケールが大きくなったことをうかがわせた。 死が迫っているようだった。 
「ヤマちゃん、その椅子に座って、マッサージをしてもいいよ」と、そばで看病していた芸能プロの社長にいわれた。
内野さんの教え子でもある彼が、かぼそく話した内野さんの言葉を通訳してくれたのだ。
死の病に臥せっている人からマッサージの椅子を進められ面映く、そして優しさを感じた。 
キングサイズのベッドの正面には、ユーモラスな200号はあろうかという大きな油絵が飾ってあった。
海の色が青く際立つ、ニューヨーク港の風景で、自由の女神が真ん中に配置され、舟も何艘か描かれていた。 
見ていると旅行をしたくなるような楽しい絵だった。 
ベッドの反対側には豪華なマッサージ椅子が置いてあり、座ってスイッチを入れ、やがて心地よくなり眠ってしまった。 
電話の呼び出し音で目が覚めた。
ベッドの上のファックスから紙がスルスルと出てきて、社長が取り上げボクに、「読んで聞かせてあげて」と頼んだ。 
それはポール・モーリアからのファックスだった。
英語で書いてあったが、それを日本語に訳しながら読んでいき、途中で意味が分からなくなり、英語の朗読に切り替えた。
「ご病気と知りとても辛いです。日本での貴方との思い出は素敵なものばかりでした。早く良くなって、またお目にかかりたいです」。
こんな内容だった。 

日本の洋楽は戦後にはじまったといっても過言ではない。アメリカを主とする進駐軍の基地が作られ、将校が集まるオフィサーズクラブには、多くの歌手やミュージシャンが出演していて、ナンシー梅木さんや笈田敏夫さん、ジョージ川口さんはここでも大スターだった。 
やがて日本一の事務所となるキョードー東京の、最も重要な3人、内野二郎さん、永島達司さん、嵐田三郎さんもこれらのクラブで知り合ったらしい。 
キョードー東京はネットワーク化され、キョードー大阪、札幌、名古屋、西日本、キョードー北陸などが作られ、内野さんはしばしば代表を務めた。
この間、ビートルズをはじめ、英米系のビッグスターや、イブ・モンタン、ジルベール・ベコーなども日本に招聘している。 
ラブ・サウンズの全盛時代も築き上げ、「ポール・モーリア」や「レイモン・ルフェーブル」、「フランク・プールセル」、やや年代をおいて「リチャード・クレーダーマン」など招聘し、オーケストラの司会をボクがさせてもらった。
最後にミュージック・リーグを作り、会長に退き、やがて退職し、それでも仕事は続けていた。 
ポール・モーリアは永島達司さんが日本に連れて来た。
後年になってポール・モーリアが、「ボクは日本人と契約するというので、背が小さな、小太りの眼鏡をかけた人を想像していたら、長身の美男子で、見事な英語を話す人と出会いびっくりした」、と何回も繰り返し話したことを覚えている。 
ポール・モーリアが想像した日本人像が内野さんなのだ。 
それから10数年経って、レイモン・ルフェーブルのマネージャーが、「永島さんは老けたが、内野さんはいつまでも若いな」と感心していた。そこでボクがいつものように皮肉を交えて、「美男子は老けるが、ブスは老けないのさ」と答えた。内野さんは美男子ではなかったが、ユーモアを絶やさない親しみのある風貌をしていた。
そしてなかなかのタヌキで、ボクらにはつかみきれない茫洋とした雰囲気も漂わせていた。 
1970年代前半、いつも年末にはポール・モーリアのツアーがあったが、その成算に事務所に行くと、事務員が出す計算書に内野さんが何か書き加えている。出演料にプラスして50万円のチップをくれたのだが、これには本当に驚いた。
この好ましいボーナスは数年間続いた。 ツアーには通訳がいなかったので、ボクはコンサートの司会をしながら、朝から晩まで30人はいるミュージシャンの面倒を見ていた。
フランス人ミュージシャンには、個人主義のへそまがり、極度なケチ、洗練された外交官風など個性豊かな人間が多かったが、ボクも同じ穴のムジナのせいか気心が合ったので、みんなと一緒にいるのが楽しかった。
こんな働きを見ていたのだろう。 
つい最近、このボーナスの話を内野さんにすると、「本当かよ。返してくれよ」といわれた。 

ヨーロッパには2回連れて行ってもらった。電話がかかってきて薮から棒に、「ヤマちゃん、行くかい?」というのだ。
「どこに行くんですか」と聞いてはシャレにならないので、とりあえず「はい、行きます」と答えてしまう。
電話を切ってから最近の会話を思い出し、「近いうちにヨーロッパに行くけど、連れて行ってもらいたいか」、というのだろうと想像した。 
当時ボクは、歌手の仕事をしなくなり、司会者専門になっていた。
それも一回の仕事はすべてキャンセルしツアーの仕事だけしていたから、暇は山ほどあった。
30代から40代、男の働き盛りに、何もしないでボーッと過ごすことが好きだった。
年に数か月間仕事をし、あとはただ遊んでいた。
有意義なことは何もせず、睡眠薬を飲み、パチンコをして人生を無駄に過ごしていたのかもしれない。
しかし何事もポジティブに考えるようになった最近では、このとき貯えたエネルギーが今、信じられないほど前向きになった自分を支えてくれていると思っている。 
パリでは超一流の、「ホテル・ジョルジュ・サンク」に泊めてもらったことがある。 
薄暗い喫茶室を通り抜けたとき、「おや、今なにか見たぞ」と振りかえると、ソフィア・ローレンが座っていた。 
内野さんは、一泊目は自分がもってあげるから、明日からは自分で払いなさいというのだ。
当時の料金でジョルジュ・サンクは、一番安い部屋でも数万円は下らなかった。
こんなところに長居は無用と、フランス人マネージャーに電話し、シャワーとトイレが共同という、一泊2000円のホテルを探してもらい引っ越した。
パリ滞在中、ミレイユ・マティユのショーを観るために、ウイーンにも連れて行ってもらった。 
ジョニー・アリデーやシルビー・バルタンを育てた伝説のマネージャー"ジョニー・スタック"から、ミレイユ・マティユのショーを観て、日本に招聘してくれるよう頼まれていたらしい。
おかげでボクはウイーンで、ジョニー・スタックと話し、ミレイユ・マティユと食事をさせてもらった。 
ローマにも連れて行ってもらった。 
内野さんは、イタリアのトランペット奏者ニニー・ロッソと大の仲良しだった。ニニーのローマの家で、レストランで、僕達はたくさん喋りたくさん食べた。 ニニーは英語、フランス語が堪能で、会話には困らなかった。
トレビの泉やコロセアムにも案内してもらった。 
ローマ滞在中にはカプリ島にも行った。
ホテルで、寝る前に突然「明日カプリ島に行こうか」というのだ。 
時刻表も調べず、朝タクシーを飛ばして駅に着き、列車を確かめる。 
ナポリ駅に着き、カプリ島までどのルートを取ろうかと思案していると、観光ガイドみたいな服を着た怪しげな男が近付いて来て、「だんなタクシーはいかがですか」と勧めるのだ。ボクが、「この男インチキっぽそうだから正規のルートを探しましょう」といい終わらないうちに、内野さんはもう男の後についていってしまった。 
この近辺は、豊かな歴史と風光の明美さで、「ナポリを見て死ね」という諺がある。(Voir Naples est mourir)  
僕らはなにも見学せず、有名な青の洞窟も見ず、スパゲッティー・ナポリターナを食って帰って来た。 
リチャード・クレイダーマン初来日の前には、パリの事務所を訪ねマネージャーのオリビエ・トッサンと仕事の話をした。
トッサンはヨーロッパの国々のヒット・チャートを我々に見せ、クレイダーマンがどのぐらい活躍しているかを強調した。
その年の夏初来日したクレイダーマンは大成功し、以後20数年にわたって来日を続けている。 

内野さんはベッドの中でかぼそく、「みな巴里祭がなんだかよく知らないのよ。だからキャンセルしてやろうかと思っている」と怒っていた。 
大きな興行だけでなく、趣味のコンサートをさせるのも好きだった。自分の住むマンション一階のフロアーでは、バイオリニストのコンサートを行ったことがある。
折り畳み椅子を持ち込めば五、六十人ぐらいの人が聴ける。
自分のポケットマネーでアーティストを呼び、マンションの住民を音楽に親しませようとしていた。
そして7月14日パリ祭の日には"山崎肇シャンソンショー"を行うことを決定していた。
でもあと一か月しかないというのに、まだ宣伝用のチラシも出来ていないことを怒っているのだった。
しかし住民側では、山崎肇ではいまいち知名度に不満があったのかもしれない。 
ボクが新橋の内幸町ホールでコンサートをしたとき、内野さんは100本はあろうかというバラの籠を届けてくれたことがある。
自分で抱えてよたよたと会場に入って来たのだ。リハーサル中のボクはびっくりして、舞台下手に飾った。  
演出好きだったので、いろいろ指図する。 
「ヤマちゃん。緞帳なしだったら、開演前にバラの花を一輪、上手の舞台前方においてスポットライトで照らしておき、下手には椅子を置いて、一曲唄い終わったら上着を脱いでそこに掛けなさい」。
世界のビッグアーティストを招聘している人がいうのだから無視できない。
ボクは指示に従い、一曲唄い終わったあとでお客様に「無視はできないので、いやいや従っている」と説明したことがある。
内野さんは客席で、大声をあげて笑っていた。 
東戸塚には、内野さん贔屓のフランス料理屋があった。
その開店20周年記念日にシャンソンショーをしてくれと頼まれた。
ボクへのギャラは内野さんが払い、店にプレゼントするというのだ。
「でもさ、ピアノも音響装置もないんだよ」という。そんなところで、どうやってショーができるのか考えてしまった。 
レストラン「ラ・マレ」は30人ぐらい入れば満員になるので、生まれてはじめてカラオケで唄ってみようと思った。
カラオケはポール・モーリアが作ってくれた最高級のが5曲、クレイダーマンのバンマスがプレゼントしてくれた「愛の讃歌」、ボクがレコーディングに使った曲や、日頃集めていた有名なシャンソンがある。 
当日、自分のマイク、アンプ、小さなボーズの二つのスピーカーでこわごわ試してみると、家での練習より遥かによい音が出てホッとした。
内野さんは、田中角栄の時代に政治記者をしていた、同年輩の男性と一緒のテーブルに座りショーを楽しんでいた。
終止ニコニコ笑ってご機嫌だった。
ショーが終わっても誰も帰らず、会話ははずみ、だいぶ長いあいだ店に残っていたことを思い出す。 
今年の3月に内野さんは、北海道の炭坑町だった、「赤平」にある「クロロランド・モシリに療養に出かけた。そこには、クマザサによる遠赤外線を利用した低温サウナがあり、また特殊な抽出法で取り出されたササや椎茸類のエキスは、ガンの治療に多大な効果があると聞き訪ねたのだ。そこに一泊し、代表の中島さん一家から近来まれなほど暖かくもてなされたと感激していた。 
内野さんは昨年秋に胃ガンになったらしい。 手術を拒否し半年ほどたっていた。 
「それでさ、そこに行ってお礼のショーをやって欲しいんだよ。たしかサウナのそばに大きなサロンがあった。ヤマちゃんのカラオケシャンソンを頼むよ。うんと笑わせてな」。 
ボクが嬉しかったのは、北海道の田舎で、ボクのフランス語のシャンソンとトークが喜ばれると判断してくれたことだった。 
5月に半ばに、札幌のライブハウス「銀巴里」に出演するスケジュールだったので、空いている日曜日に赤平に行くことを決め、やがてあちらからは、お客が60人ほど集まりましたと連絡が入った。 
日曜日の朝は雨だった。迎えに来た車で札幌から赤平に向かい到着すると、なんと内野さんが昨日から来ているというのだ。 
本来なら土曜日に札幌に来て一泊し、赤平にはボクと一緒に行く予定だったが、病状が悪化して歩くこともままならなくなっていた。
医者からは、札幌行きは厳重に止められていたので、まさか来るとは思っていなかった。 
内野さんが感動した温かい心をもつ赤平の人々は、大きなミキサーやスピーカーを用意して待っていてくれていた。
カラオケのCDを選び、ノート形パソコンをミキサーに繋いで練習していると、いつ来たのか内野さんが、奥に座って成り行きを見ていた。
お付きの人にバラの花束を持たせている。 
「ヤマちゃん、『百万本のバラ』を唄ったあとに、この花をお客さまにあげるんといいと思うんだ。
右側の方のお客から一本ずつネ‥‥。それまでは壁際に置いておこう」。 
言葉には勢いがなくよれよれだった。その上、右目の下と右側の鼻の下に絆創膏を貼ってある。また転んだらしい。 
でも内野さんはどうしてここまで来たのだろう。 
葬式のあとで弟さんは、「兄は完璧主義者で、何事にも全力を尽くす気性だった」、と説明してくれた。 
ボクのフランス語シャンソンとトークショーは大成功で、持っていった本もたくさん売れた。
25才ぐらいの青年から、「この本はインターネットで買ったばかりです。今日買ったのではなく申し訳ありませんが、サインして下さい」と本を渡され、とても嬉しかった。
ここにも世代を超えてファンが一人いたのだ。 
主催者からは「内野さんから出演料は払われていると思いますが、これはほんの気持ちです」と、多額のお車代を頂戴した。
多額のお車代は、クマザサの遠赤外線低温サウナよりも、深くボクの心を癒してくれた。 
夜の食事は楽しかった。主催者は自分の時間がないほど、日本中を講演して歩いているが、この日のために滞在していた。
札幌に事務所を持ち、彼が開発した椎茸やクマザサからのエキス抽出法は、大手の薬品会社や商事会社が目を付けているらしい。 
北海道らしい広大な敷地の中のどでかい家にある広間で、ボクはカニを食いながら、3月に内野さんが味わった、この家の暖かなもてなしに心をゆだねていた。
休むことなく働いているお嬢さんが魚のスープをすすめてくれた。奥さんは3年ほど前までは車椅子の生活をしていたらしい。
そういえばこの家は、何処もかしこもバリアフリーになっている。 
「念願の腰の手術が上手くいって、今ではこうして歩くことができます」
どうして腰を悪くしたか話してくれたが、この恵まれた家にもたくさんの苦労があったらしい。
結びの言葉、「‥‥‥感謝しています」には深い意味がこもっているようだった。 
「まったく。こんな不味いもの食べられないよ」
内野さんが精いっぱいの声を張り上げて、蚊の鳴くような声で悪態をついた。悪態は機嫌のいい証拠なのだ。 
どうやら内野さんは、ローストビーフの肉を東京から買って来たらしい。介護について来た友人のショーちゃんが、自慢の腕をふるい料理したのだが、確かに肉はたしょう硬かった。 
たとえ肉がうまくても食べることは出来なかっただろう。奥さんにすすめられたカニも、サラダも、喉を通ることはなかった。 
「3月に来たときには、まわりはすっかり雪景色だったよ」。
内野さんはまるで、遠い昔を振り返るように、それが昨日のことのようにいった。
時の感覚が、健常な人々とはまるっきり違っているのだろう。 
絆創膏を貼ったよれよれの顔を見ながら、今、どのぐらい苦しいのだろうと想像した。痛いとか苦しいとかいわない。
みなが食べ、おしゃべりをしているのを楽しんでいるようだった。自分から寝ましょうとはいいださなかった。 
主人の言葉で夕餉は終わり、ショーちゃんに支えられ寝室に向かう内野さんを見ながら、明日は会えないかもしれないと不安を感じた。 

東京に帰ってすぐ入院させられたが、我侭をいって強引に退院した。
酸素吸入器を付けている末期の患者を、絶対に退院させることはできないと、医者は大反対したそうだ。 
内野さん宅のトイレには、自分が書いたメモが幾つか貼ってあった。
その一つが、「一怒一老一笑一若」
ゴロが悪いから自分で考えた言葉だろうか。
とても気に入り、座右の銘として心にしまい込んだ。 
5月にパバロッティーを招聘したのが最後の仕事になった。
何年か前に3大テナーを招聘したとき、青山の伊太利レストラン「サバーティーニ」で、パバローティー、カレーラス、ドミンゴにハッピーバースデイを唄ってもらったことがあったが、77才の誕生日は祝えなかった。 
満たされた人生だった。
著書「夢のワルツ」のなかで、「小学校しか出ていないボクがこのような仕事を出来たのも、めぐり会った人々のおかげ」と書いてあった。 
密葬の日ボクは、ベッドに横たわる内野さんの足下にあぐらをかいて座っていた。そこは以外にも居心地がよかった。
回りに芸能の神々が鎮座していることを願いながら、音楽に対する情熱がいつまでも冷めないこと、才能がより開花することを願った。 
ペギー葉山さんが額にくちづけしていった。
「内野さんサヨナラ‥‥‥また会おうネ」